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執筆者の写真叶崎ぱん 夢の

011『大津婦人会館』の今昔物語

更新日:2022年6月23日

港から少し上がった所に小さな赤い屋根の小屋があります。

入口に大きな字で『大津婦人会館』と書いてあります。


昭和35年に「下川口小学校」が新しく建て替えられる事になりました。

「下川口小学校」の校長先生が大津に住んでおられたのでご縁があったのですね。

「廃材がいるのなら取りに来るように」と云われて何人かでもらいに行ったそうです。

その廃材を戴いて建てたのが『大津婦人会館』です。


当時は味噌つくりや食事会の料理を作り地域の方の憩いの場として。

8月の盆踊りの時は休憩所として。

平成13年の水害の時には被害にあった方の道具入れにも使われていました。


「8月の祖母の初盆に会館前の広場で義母達が太鼓踊り(日本手ぬぐい振りながらピョンピョン跳ねて)や炭坑節を踊っていたなあ」と、懐かしく思い出されます。

今、会館前は神社の祭りの祝詞をあげる場所になっています。大切ですね。


婦人会館のすぐ横に漁師小屋があり、そこには網とか道具類が入れてあったそうです。

秤もありテングサ(寒天)や貝を業者がトラックで買いに来ていたそうです。

15年ぐらい前までは使っていたようです。今は小屋もなくなり面影もありません。


その隣に区長場もあり、部屋が2部屋あったそうです。

約60年前の話です。「大津小学校」が建て替えられることになり、仮教室として5、6年生の30人ぐらいが区長場の片隅で授業を受けていました。

叶崎観音堂でも仮教室として勉強していたそうです。2か所に分かれて交代しながら…

複式学級だったので低学年と高学年に分かれて勉強していたそうです。


「大津小学校」のピアノなど道具類をお寺へ預けていました。

ピアノがなく寂しい卒業式になったんじゃないかと思っていました。

でも、5年生(15名)がハーモニカを吹いて卒業生(12名)を送ったと云うことです。

感動ですね。先生のピアノもいいけど下級生のハーモニカ演奏に送られて…最高ですね。

きっと、みんなの心にも残っているじゃないかと思います。


当時の6年生の方の話ですが叶崎観音堂での授業では、毎日100字漢字を書くのが日課(ノルマ)になっていて、その先生のおかげで漢字に強くなったと思い出しておられました。大切ですね。先生も、その思い出も、そして漢字も。


あれっ、婦人会館から色々な話になりましたね、アハハ



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